日立に来たのは、最近では二回目だ。その前もきたことはあるが、なんと昭和40年代の頭だった機がする。曖昧ななのは、あいまいにしておきたい青春の思い出があるからだ。
勝手な思い込みは、とんでもない無知をさらけ出すものだが、それは私の九紫、八白、一白の剋気かどうか。日立市は、日立製作所が中心に出来た街かと、思い込んでいた節がある。
地元の方に激怒されそうな無知ぶりだろう。何万年前からの遺跡や、歴史のある日立という地名に因んで、創業者が、近年、創った会社が、日立製作所なのに。
近年といったが、正しくは1912年、久原鉱業日立製作所が、現在の日立の前身と言うからかなり歴史があるのだ。
日立の創業者は、小平浪平(おだいらなみへい)であり、今の東大工学部出身。一白・六白・九紫のひと。小平浪平の大きな後ろ楯となり、共に創業したのが、久原房之助と言う五黄・六白・四緑の、ゼロから叩き上げて大富豪になった人であった。
五黄らしい破天荒なその生涯に興味をひかれ、十代のころから、私は、その名を知っていた。長州・山口県の出自で、97歳で大往生をとげる。
没したとき、日本の国家予算の25%を持っていた大資産家は、井戸と塀だけが残っていたとされる。だが、育てた会社は、日産自動車など、大企業が、現在も世界で活躍している。いかにも五黄らしい痛快さの一代。
それにしても、創業者たちの理念(ビリーフ)は、一つの国や街などの運命すら左右しかねない凄さがある。彼らのビリーフは、常に「人類のために」であり、「人の為世の為」である。まさに祐気そのもの、強運なのは当然、ギバーとして人々に与えた福音は、図り知れない。
海外には多いが、人名を付した地名もそれを物語るのだろう。そうした想いで街に来ると自然と背筋がしゃんとしてくる。いい気を、いただけて、有り難うございます。
街路樹にも語りかけたい
むらっち