50年前、~ああ、もう、50年だ!
そう、50年前の今日である。11月22日(1963年)アメリカ大頭領ジョン・F・ケネディが、テキサス州ダラスで、暗殺された日だ。
衝撃の映像だった。
オープンカーの大頭領。たった一発の銃弾が頭部に! ケネディと並んでいたジャクリーヌ夫人の悲鳴が、現場から、聞こえたような錯覚すら起きたものだ。
刺殺された力道山とケネディ大頭領の暗殺は、二十歳になったばかりの私に、死と人の運命とを、否応なしに、深く考えさせられた。
とりわけケネディ大頭領の死によって、一週間ほど、虚しさとなんとも言えない喪失感の淵に、落ち込んでしまっていた。
それは、ケネディが、大頭領になる前の、まだ無名のころ、一議員として書いた【勇気ある人びと】と言う本が、表紙裏の著者ケネディの写真とともに高校生であった私の胸に、ズシリと深く、それでいて真っ赤な炎のようなインパクトを与えていた。その本は今も蔵書のなかにある。
ピュリッツァー賞の受賞作でもあったこの作品をとうして、ジョン・F ・ ケネディへの関心は高まり、やがて若き大頭領になったとき、まるで自分の夢実現のような、高揚し、充実し幸福感につつまれ、核戦争寸前の大頭領の決断に、手に汗を握って、見守っていた。当時のソ連大頭領・フルシチョフおじさんの決断にも、拍手をおくったものだったが。
フルシチョフにも、わたしは、妙な親近感をもっていたのだ。核戦争回避の二人の決断をはらはらして見守っていたあの十代のころの、あの純粋な憧れ~! それが、ケネディに集約されていたのだろう。
やはり大好きな作家の高木彬光は気学を、実践哲学として、世に広めた方だが、暗殺される当日までのケネディ大頭領の動きを追って、五黄殺、暗剣殺をおかし続けていることを、示してくれたものだ。
この度、ケネディの娘キャロライン・ケネディさんの駐日大使着任には、ケネディ家にまつわる、不思議と言いたい因果関係がある。
歴史の影のなかに、シンクロニシティが、隠れている。それは、別の機会に書きたいと思う。
シドニーへ出発前
山科(やましな)の むらっち