今、5時29分。
昨夕、始まった胆石症状の激しい痛みは、漸く、おさまる。枕元に準備した保険証と大学病院の診察券や、救急車の手配などを、手で遠くに押しやる。
先々月、主治医に、ニコニコしながら、
「こんど、発症したら覚悟してくださいよ」と念をおされたばかり。手術をしなさいと言う意味である。
数年前、胆石症状が出て、死ぬ思いをしたのは、近場の間違った祐気採りの直後であり、午前2時東大の救急窓口にはこびこまれた。「手術をする」と言うのを断り、それ以来、海外はじめ、国内で10数回激痛に襲われ、それでも手術をさけて、これまで、どうにかやってきた。
実家の義母の入院で、京都に帰っているカミさんに、昨夕、危ないかも知れないと、念のため、連絡はいれておいたが。
痛みがはしまると、現金なもので、神頼みが始まる。まず、自分のこれまでの生活態度を反省する。
わがここのなかの閻魔大王サマの前で、告白。お酒の飲み過ぎ、ストレス。コレステロールの多い食生活と、とくに大好きなピーナッツ、クルミ、アーモンド、コーヒー、
不規則な食生活。適切な運動不足。
これらをならべ、今後は、気をつけます。ごめんなさい!おゆるしを!と平身低頭する。
「わかった!わかった!お前を不幸にするために、こらしめているんじゃない。お前を成り立たせているセル(細胞)たちが、悲鳴をあげているからじゃ。それに気づかねば、手術することになる。仏の顔も三度まで、というが、お前はいったい十数回もお慈悲をもらっているぞ」
ハハァーと私は額を床にこすり付けて、反省し、感謝し、おのれを慈しむことを、また、誓うのでした。
午前2時ごろ、つけっぱなしのテレビが、ふうーっと、遠のく感じがして、数分間眠ったらしい。目覚めたとき痛みが和らいでいる。
飛び上がるほど嬉しく有り難く、細胞一個一個に感謝する。
国民的作家の五木寛之さんは、二冊めの「養生」の本を刊行されたばかりであることを、新聞広告でみたばかりで、一冊めは読んでいる。やはり、すごい人だと、感嘆する。自分で自分をコントロールできるからだ。それは不埒な己の欲望との戦いだからである。
今回、「病いの原因は自分にあり、病気が治るのも治らないのも、やはり、その原因は、自分自身にある」
と言う、ごく当たり前のことに、漸く、悟ったのです。
本命殺と五黄殺のダブルの気の凶を、二日間れんぞくして、それを知りつつ、冒(おか)したことの作用(象意)でもある。
気の世界に理解がなく、今までの科学がすべてだという常識豊かなかたには、理解はできないことだろうが。
それにしても
「わかっちゃいるけど、やめられない」
これを、煩悩(ぼんのう)というのかしらんー。
生悟りのむらっち