「日本の桜が、海外で大人気。春のヘルシンキからの航空便は満席❗」
「神社・仏閣と階段と桜は日本の情緒だ」
まさか、地獄・奈落へ落ちる思いがするなんて、知る由もなく、AY078機は、ヘルシンキの空港には、3月23日の昼下がり定刻に着いた。
促されて機外に出る。が、頭のなかは赤いワインの液体と、まだ読み終えてない小説作品の世界で、いっぱいだ。ほとんど寝てないが、ワインと小説で火照った身体は、タクシー乗り場で冷たい外気に触れて、心地よさが増す。久し振りの大好きなフィンランド。
名作(出版されたばかりだから、評価はこれからだろうが、私には名作である)「蜜蜂と遠雷」の世界に浸りながら、言葉では表現できないほろ苦く、どこか甘い惜春と、取り返しの出来ぬ地点まで来てしまった、おのれの人生の過ぎ去って行った煌めく月日と言う時間の流れーーータクシーのゆれに身を任せながら、思う。「このセンチメンタルも、エトランゼであることと、あの作品世界を触媒とする心の奥に畳み込まれた、それぞれの人生を綾なすピースの一つ一つが、美しい旋律とともに、映像を結んでいくからだろう」と、自分で自分を納得させる。
予約した半円形のビルが二つ並ぶ、メガネ型のホテルの玄関に、クルマはすべりこむ。47ユーロとメーターの表示だ。おお、少し近道をしてくれている。うれしくなる。タクシードライバーに50€をわたし、おつりは、どうぞ。と言うと凄く喜んでくれた。
わたしより背の高いチェックインカウンター譲が聞く。どんなお部屋、ご希望です?
お任せするよ、眺めが良ければいいよ。では、604号室です。にこやかに言い、向こうの棟のビルですと指さした。
部屋はツイン。広いテーブル。ゆったりしたソファーセット。仕事がはかどりそうだ。
ベッドに寝ころんで、部屋のキーの604の番号を見る。「そうか、今年の象意そのものだ。新しいスタート、必要なことの復活か」ーーでも具体的には何だろう。仕事も家庭生活も人生観も、さらに、人間関係や仕事のやり方も見なおす、と言う事ではあるがー。この時、後に起きることと密接にリンクしているとは、つゆ知らず、多幸感に包まれていた。
ベッドから首をもたげると、ヘルシンキの街が見える。夕暮れ時か、ビルの上の空が、刷毛ではいたような薄いブルーで広がり、オレンジ色の夕陽が一部の建物を染めている。
平和で穏やかな夕景。窓側に立つと、公園風の広い緑地帯の左右の美しい歩道を、三々五々、背の高いスマートな人々の歩く姿。森と湖の国。周囲の大国にいじめられてきた歴史を持つ国。だが原発を五基を持ち、原発廃棄物処理のオンカロのある国。それでも、大好きなフィンランド。
満ち足りた喜びのまま、ベッドに戻る。仕事よりも、読みさしの「蜂蜜と遠雷」のページをめくる。
至福のひととき。たちまち作家・恩田陸描く虚構の真実空間に入り込む。ベッドがまるで旋律を奏でて、空間に登場人物たちのひたむきな姿が映し出されているようだ。
抑えがたい感動は、とめどもなく溢れる涙となって吹き出てくる。ページの行間から立ち上がってくる演奏される音。その音の紡ぐ世界が迫ってくる。古今の名曲のその音は、理性と意志とを奪う。裸の魂の喜びと、その中にある哀切と。いったい、この溢れる涙は、何なんだ。
次の日、魂の至福の時は、一気に暗転した。
3月24日、午前11時半から13時の間に、それは、起きた。
この日、朝8時に自分のホテルをでた。気学的奉斎のいい場所の下見に出かける。3時間半歩いてめどがつき、ヘルシンキでは、最も大きく古いホテルの一つの、広々としたロビーに入った。
疲れた足を低いテーブルにのせ、その上にコートを掛けた。白い布製のバックにすべてを入れ、それを、両膝の真下に置く。
ペットボトルの水を飲み、おもむろに本を開き、続きの作品の世界に入る。ページをめくりながら思う。1時になれば、ここを出て、途中で見つけておいた、すし屋でランチにしよう。それにしても、なんとも騒々しい。凄い団体客だ。アジア系と中東系の団体はうるさいなあ、白人はカップルが多い。そうした旅行客らしい中に、打合せか休憩の地元の人たちも、増えてきたようだ。ごった返す雰囲気の観察にあきて、小説に熱中した。
ふと、気がつくと、周囲に誰もいない。
えっ 誰もいない。広いロビーに人影はない。背中の方をを振り返ると、10メートル先のカウンターに、ホテルの若い女性達が、暇そうに雑談をしている姿が小さくみえる。膝の下のバックに手を伸ばす。ない。ない。ウソだろう。
立って、探す。ない。えっ これって現実?そのあたりに、チャンとあったりして。広いロビーを見渡す。見事に自分がたった一人だけだ。バックは? ないものはない。
現金のすべて。パスポート。携帯電話。手帳。ショール。2冊の本。
誰が見ても、顔面蒼白だったろう。午後1時半。
慌てて、カウンターに行き、警察を呼んで下さいっ と何度も言うが、ダメだ首をふる。自分で警察に行け、という。
たぶん、呼んでもダメだろう。事情聴取で終わりだろう。1円もない。携帯もない。どうするっ?思うほど、絶望的になる。
まず、自分のホテルに、戻り、それから考えよう。
手元に残った小説本一冊だけを、抱きしめて、外に出た。「この出来事は、偶然か、偶有性なのか。この出来事との出会いは、いったい何なのか」固く冷たい石畳を踏みしめながら、孤独の恐怖がはじめて迫ってきた。
冷たい風が強く、寒い。一円もなく連絡手段がない事に、改めてパニックになりそう。それほど、お金と携帯に依存していた自分。歩きながら考える。お金がない事実をふまえてどうするか。最低限今すぐやることは何か、。
①まず、日本または日本人に連絡を取ることに全力を尽くすこと。
②次に、水の確保だ。
凍える思いで、自分のホテルに、飛び込んだ。
§ 顔面蒼白ヨレヨレのむらっち §